七宝瀧寺の歴史

開基

役行者犬鳴山は、斎明天王の7年(西暦661年)、修験道の開祖である役小角が28歳の時に開基されました。
大和の大峰山より6年早く開山されたので、元山上と呼ばれます。役行者の開山時に倶利伽羅大竜王が出現し、これを本尊としたと伝えられています。また葛城峯中の奥の院とも呼ばれ、葛城二十八宿修験根本道場でもあります。役行者は当山で、国家案穏、五穀豊穣、緒人快楽の密法を修せらた。

中興 - 南北朝時代

犬鳴山は、役の行者の霊場ですが、同時に、紀伊、和泉、河内の連絡には要衛の地でした。このため、犬鳴山と南朝方とは特に密接な関係にありました。楠木正成の一族(楠木正行、楠木正時、楠木正儀ら)の活動の中心は、山伏の勢力範囲と重なっており、笠置、吉野、粉河、犬鳴等は武家と山伏との混成部隊でした。
正平十七年(1362年)南朝方の最後の主戦論者の中心武臣であった橋本正高は、志一上人を犬鳴山に招いて不動堂を建立しました。これによって、志一上人による当山の中興がなされました。志一上人は学徳ともに優れた名僧でしたが、正高が志一上人を犬鳴山へ招いた理由は、志一上人への深い帰依だけでなく、犬鳴山伏の一大勢力を頼ってのことでもありました。橋本正高と犬鳴山伏は良好な関係を継続し、その後天授二年(1375年)八月には、当山法師願正上人に命じ、法華妙典一万部を修め国家安穏の大修法をなさしめ(この時の祈祷供養板碑は本堂横手に現存)、さらに十四坊を建立しました。これで、前後合わせて二十の僧坊をかためることとなりました。
実に犬鳴山の山伏は、この要栄に翻居して、和泉、紀伊の連絡の鍵を握っていたのです。この犬鳴山の山伏の後楯によって、正高は天授四年(1378年)十一月、十二月の寡兵で、細川氏春、細川頼元、山命義理の三万の大群を土丸城によって防いだのです。正高はこの戦いに敗れて紀伊に退きましたが、翌天授五年(1379年)正月、再び紀伊から和泉に打って出て、土丸城を奪取してこれに拠りました。そしてさらに義兵を挙げますが敗れ、さらにその夏、山を越えて和泉に打って出ました。これら数回の山越えに際し、犬鳴山がいかに力添えになったかは容易に想像できます。

室町時代

室町時代は熊野信仰と葛城修験道の隆盛にしたがって、当山もまた隆盛を極め、今もなお、山中至るところ当時の供養碑等が数多現存しています。関白内大臣九条植通(1504〜1558)は、当山に参詣して「思いきや七の宝の瀧に来て六つのにごりを清むべきかや」と詠むなど、貴顕公兜卿諸公も足を運んでいます。

安土桃山時代

安土桃山時代には、戦国時代の群雄割拠のため、近畿の山野は至る処兵火に犯され名刹は何れも受難時代でした。織田信長も、自己の意のままにならなかったため、当山の寺領数百町歩を没収しました。天正十三年(1585年)には、豊臣秀吉の兵火に罹って本堂以下の諸堂悉く焼失しましたが、その後秀吉は米麦を寄進すると共に滝本坊(現:宿坊)を再建、御供米として三十石を寄附しました。

江戸時代

江戸時代になると修験道の復興と併行して当山も隆盛となり、承応元年(1652〜1655)には観音堂を建立し万治年間(1658〜1661)には本堂修理、現在の本堂下石橋を架け、領主岡部行隆公は新田五反を寄進するなど、世人の信仰は集まってきました。
享保五年には本堂を再建し、佐野の豪商食野行康は石灯籠を寄進し、安然法師は寺記を編集するなど見るべきものが多くありました。寛政五年には岡部長備公から石灯籠の寄進がありまた、岡部公歴代の位碑が納められました。江戸、大阪、堺、岸和田を始め大和紀州などの信者により石灯籠、道標の寄進があることからも、その信仰の程度が想像できます。嘉永二年には、葛城修験道の現存せる唯一の文献であり、峯中記である「葛嶺雑記」が、当寺に於いて智航によって執筆されました。

現在の犬鳴派

明治時代には廃仏毀釈と共に修験道が禁止され、寺観が著しく衰えましたが、明治後期には中興し、以後、大戦を経て復旧に努めてきました。昭和二十五年八月七日には、往時の宗教体制に還り、新たに真言宗犬鳴派を公唱、葛城修験道の根本道場として修験道部を置くなど再興を見つつあります。
現在は寺域は十八万三千四百坪を有し、生命迄不動明王の霊場として多くの信仰を集めるとともに、葛城修験の入峯修行や山内行場での修行に力を入れており、多いに面目一新しつつあります。国内の霊山のなかでも元祖とされ、独自の進化をとげた犬鳴山。近年の研究では、役ノ行者尊の発祥霊山としての裏づけも公開されるに至っています。